ルーツはどこから
御節の起源を探って行くと、そのルーツは弥生時代にまで遡れます。
縄文時代後期に朝鮮半島から伝わって来た稲作文化ですが、弥生時代になると日本各地で水稲耕作が行なわれる様になり、米が主食として一般的になりました。
この米食文化と御節料理が大きく関係していると考えられています。
稲作が日本に伝わる以前の縄文時代までは、主に動物や魚介類を獲って食料とする狩猟文化でした。
その後、稲作の技術が伝わり水稲耕作が行われる様になると、これまで以上に気象と人間との結びつきが強くなっていきました。
気象状況によって大きく左右される水稲耕作が一般化すると、自然の恵みに対する感謝の気持ちが生まれていきます。
その感謝の気持ちを表す行事が度々行われ、お供え物をするようになります。
それが「御節の起源」と言われているのです。
「御節」の「節」とは、中国から伝来して来た暦で、季節の変わり目を「節」として区切り、その「節」に合わせて感謝の気持ちを込めて作られた料理が、「御節料理」の元々のルーツです。
奈良から平安時代にかけての御節
中国から伝来して来た「節」の行事は日本で広がり、奈良時代から平安時代にかけて、宮中行事として定着します。
「節日」と呼ばれる暦の上で節目に当たる日に、邪気を祓い、不老長寿を祈願する儀式を行いました。
その時にお供え物をし、宴を開く宮中行事を「節会(せちえ)」と呼んでいます。
平安時代には「五節会」と呼ばれる、特に重要な節会がありました。
これは「1月1日の元日」から始まり、「1月7日の白馬(あおうま)」、「1月16日の踏歌(とうか)」、「5月5日の端午(たんご)」、「11月の辰の日の豊明(とよのあかり)」の五つの節会でした。
この五節会で供された料理は「御節供(おせちく)」と呼ばれ、これが現在の「おせち料理」の語源と考えられています。
御節供と呼ばれていた平安時代の御節ですが、現代の御節とは似ても似つかない物で、ご飯を山盛りにした漫画に出て来る様な物でした。
現代版御節のルーツ
江戸時代に入ると、五節供は、「1月7日、人日(じんじつ)」「3月3日、上巳(じょうし)」「5月5日、端午(たんご)」「7月7日、七夕(しちせき)」、「9月9日、重陽(ちょうよう)」の5日となり、現代の節句の元となっていきます。
1月1日は、五節供とは別格の日とされていました。
徳川幕府は、五節供を公式的な祝日として定め、幕府の公式行事としました。
それが次第に庶民の間にも受け入れられると、庶民による御節供料理が作られて行きます。
一説には「庶民が宮中行事を生活の中に取り入れたのがきっかけ」として考えられ、その時期が江戸時代後期と言われています。
元々は五節供全ての料理を示した御節供料理は、人日の節句(1月7日)をお祝いするお正月料理として定着していきました。
平安時代までは現代の御節とは大きく違っていましたが、江戸時代に入って庶民にも御節供料理が広まると、次第に進化して行きました。
当時の多様な食文化を取り入れて行き、現代の御節に非常に良く似て来ます。さしずめ「現代版御節のルーツ」と言ったところでしょうか。
正月料理としての御節が、四段の重箱に詰められる様になったのは江戸時代末期です。
福が重なる・幸せが重なる・おめでたいことが重なるように、との願いを込めたそうです。
そして現在
それまでは各家庭で手作りされていた正月料理の御節ですが、終戦後の復興と共に和洋折衷な豪華な物になって行き、デパートでも売り出される様になりました。
こちらのサイトでも分かりやすく説明されています。
おせちの由来と歴史
デパートなどで、見栄えの良い重箱に詰めた正月料理が売り出されたことが、おせち料理を重箱に詰める手法を確立させたとも言われています。
江戸時代後期に庶民の手によって大きく進化し、広く一般的になった御節。
この庶民による御節供料理も、当時はまだ「おせち料理」とは呼ばれておらず、「蓬莱」とか「食積(くいつみ)」等と呼ばれており、現在の「おせち料理」と呼ばれる様になったのは、第二次世界大戦後のようです。